「All About」の「公明党・創価学会基礎知識2008」記事が掲載後わずか1日で謎の消滅 - GIGAZINE
実はこの記事が書かれたあとに元記事復活しています。
公明党・創価学会基礎知識2008 - [よくわかる政治]All About
[追記/2008.09.03]
本記事は2008年8月31日に弊社確認作業が行われないままに掲載されたため、9月1日に記事を非掲載にいたしました。弊社確認作業を終了し一部修正が完了いたしましたので、9月3日より再掲載しております。
All About 編集部


誤字はおいておいてどこが変わったか調べてみると。

1. 創価学会の成立と「迫害」→創価学会の成立と「弾圧」
「弱い立場の者などを追い詰めて、苦しめる」といった意味の「迫害」を
「支配者が権力を行使して反対勢力の活動を抑圧する」といった意味の「弾圧」に変えています。

2. 「折伏(しゃくぶく)」に関しての説明部分
折伏というのはもともと日蓮宗の教義で、他宗派を攻撃し、人々を法華経に帰依させることをいいます。戸田は、まだまだ数百人しかいない学会を大きくするため、「75万世帯折伏」を実行するよう呼び掛けます。

折伏とはもともと仏教の布教活動で、相手に迎合することなく対話を通じて仏法を伝えることをいいます。戸田は、当時3000人だった学会を大きくするため、「75万世帯折伏」を実行するよう呼び掛けます。
修正後の書き方だと今ひとつピンときません。

3. 公明党ができたくだり
いくつもある日蓮宗諸団体のなかで、国会議員を自力で擁立したのは創価学会だけです。

いくつもある日蓮宗諸団体のなかで、政党をつくって政治に本格的に参入したのは創価学会だけです。
修正前のほうが創価学会の力を感じさせる文章になっています。

4. 公明党が雑誌や学校法人を作ったり芸能人を世に送り出したりしたくだりの最後の行を削除
こうして創価学会と公明党は、その社会的地位の向上という目標を十二分に実現するのでした。
創価学会の目的を明確に伝えている一文です。

5. 「言論弾圧事件」に「(言論出版妨害事件)」を加える
Wikipediaには「言論出版妨害事件」として詳しく解説されています。

6. 「政教分離」に関する説明を追加
学会と公明党を組織的に分離する、いわゆる「政教分離」
誤字の範囲。こちらのほうが分かりやすいです。

7. 戦時中の「ファシズム」の中でともに弾圧され構成員が獄中にあった→戦時中の「軍国主義」の中でともに弾圧され構成員が獄中にあった
自由主義・共産主義に反対し、独裁的な指導者や暴力による政治の謳歌などを特徴とする極右の国家主義的、全体主義的政治形態の意である「ファシズム」を
軍事力の強化が国民生活の中で最高の地位を占め、政治・経済・文化・教育などすべての生活領域をこれに従属させようとする思想や社会体制の意である「軍国主義」に変更。

8. 「公明党は創価学会なしにはやっていけない」→「公明党にとっては(創価学会は)大切な支持基盤」
どっちも本当ですが、やはり修正前のほうが分かりやすいですね。

修正前も修正後も言っていることは変わらないものの、修正前のほうが分かりやすい気がします。

と、以上を踏まえて修正前の記事を読んでの感想。

創価学会は当初、教育団体だった(略)
戦時中はこうした新興宗教などは徹底的に弾圧された(略)
1943年に牧口ら学会幹部は逮捕・起訴され、牧口は翌年に獄死します。この弾圧が、結果的に[天皇制ファシズム・軍国主義反対→平和主義]という創価学会の主張を作った
教育団体から平和主義を唱える新興宗教へ、その後軍国主義による弾圧。
これはまさに悲劇のヒーローチックな展開で人気が出るのも否めません。
「折伏(しゃくぶく)大行進」で(略)
百万世帯が学会に入っていました。東京五輪の年には公称5百万世帯です。
「折伏(しゃくぶく)大行進」というのは前述のとおり強引な勧誘です。
それでも会員が増えていったのは、
都市が一気に過密化していったのが高度成長時代(略)
就職のために上京してきた彼らには大学のような受け皿になるコミュニティがありません。
そんな彼らの孤独の中に入っていったのが創価学会と、もう1つは共産党でした。
なるほど、そういった背景があったんですね。
共産党も創価学会も元をただせば同じようなものだったようです。
やがて会員を増やしていった創価学会は国政の場に進出します。
学会の政界進出はさらに続きます。1961年には公明政治連盟が設立され、さらに1964年には公明党が結成されました。そして1967年の衆院総選挙で25議席を獲得して第4政党としての勢力を誇るまでにいたるのです。(略)
さらには雑誌『潮』『第三文明』を立ち上げたり、「民音(民主音楽協会)」をつくってここを拠点に多数の芸能人を送りだしました。学校法人も作り、大学まで設立します。
創価学会と公明党が一気に社会的な認知を受けた時代です。
芸能人に創価学会員が多いのもうなづけます。
その後、「言論弾圧事件」がおきます。そのときに助けに入ったのが自民党=田中角栄氏だったようです。
自民党は、1960年代を通じて絶対安定多数の議席を維持していましたが、実のところ得票率はゆるやかに低下していました(1960年:41.9%→1969年:32.3%)。(略)
いつのまにか田中派と公明党、学会の関係が補完関係になり、親密さを増していた。
つまり、今の自民党と同じ事を過去にも行っていたということです。
結局、この頃と今とまったく変わっていないということですね。
最終的には「言論弾圧事件」をきっかけに、
池田会長は「お詫び」をし、学会と公明党のいわゆる「政経分離」を宣言・実行します(略)
また、どういうわけか創価学会はライバルであった共産党との結びつきを強めます。(略)
自民接近を行っていた公明党はこれに反発。ここに「政教分離」をし自立しようとする公明党の姿があります。しかし、結局は学会の意向を無視することができませんでした。
結局共産党との共闘はある事件をきっかけにご破算になり、逆に仲たがいして今に至るようです。

その後、細川内閣に加わったり、新進党に参加したり(この間「公明党」はなくなります)とうまいこと姿を隠しながらも、「創価学会」の「公明党」は復活します。
そして、
小渕内閣(小渕首相も田中派を源流)のとき、公明党は自民党と本格的に連携、地域振興券の実現を成功させます。さらに自民・自由の連立政権に正式参加、自由党が連立離脱すると、(自由党の分派・保守党が2003年まで連立政権に参加していましたが)事実上の自公連立政権がスタートすることになります。
弱くなった自民党にうまいこと取り入れられ、もちつもたれつの関係になり今にいたります。

最後にまとめとして
学会は公明党以外の政党とも手を組む可能性を模索しているのかもしれません。(略)
創価学会は公明党なしでもやっていけるが、公明党は創価学会なしにはやっていけないわけですから。
とあります。
それだけに、いわゆる「P献金」も真実味を帯びてくるわけです。
公明党は学会とのつながりをなんとしても維持していきたいでしょうから。

と、こういった感想になったのですが、もしかしたら修正後の記事だけしか読まなかったら違った感想になっていたかもしれません。
これもいわゆる中国がやっているような情報操作と同じようなことなのでしょうか?