情報化社会が進んで多くの情報が瞬時に手に入るようになってきています。
そんな時代だからこそ、情報の取捨選択が必要となってきているのですが、かつては、与えられた情報が全てだという時代もありました。
それが間違えていても、意図的に与えられた情報だとしてもそれを信じるしかなかったのです。

ところがインターネットの出現により時代は変わりました。
与えられた情報が正しかったのか調べる手段を我々は手に入れたのです。
だから今こそ、過去に起きた大きな事件をあらためて見なおしてみると色々と見えてくることがあるのでしょう。

ということで、こんなコーナーを考えてみました。
題して、「時事邂逅」。
「邂逅」というのは思いがけなく出あうこと。という意味だそうです。
自分の場合もネットサーフィンをしていてたまたま当時の事故資料に出会うことがきっかけでこの企画を思いついたということで、このタイトルにしました。 
時事にしたのは事件以外のことも扱うかもしれないため、受け皿を広めにしておいたというわけです。
 


初回となる今回、「日本航空123便墜落事故」を扱うことにしたのは以下のYouTube動画を偶然見たことがきっかけとなっています。

事故が起きたのが1985年(昭和60年)8月12日。
このボイスレコーダー音源がマスコミに公表されたのが15年後の00年8月です。
それまでの長い間、なぜ公表されなかったのか? また、15年経って公表に至ったのはなぜか?
当時の複雑な社会状況が見て取れます。
今だったらYouTube等、ネットインフラを使って何処かから流出するんじゃなかとも思えなくもない。

非常に凄惨な事故だったのですが、それに関しては画像検索をしていただくとすぐわかると思います。
□ 日本航空123便墜落事故 - Google 検索
□ jal123 - Google 検索
あまりオススメ出来ませんが。。

原因は整備不良が起因となった爆発のようですね。
この辺りはWikipediaから引用させて頂きます。

□ 日本航空123便墜落事故 - Wikipedia
  1. 事故機の後部圧力隔壁が損壊し、その損壊部分から客室内の空気が機体後部に流出したことによって、機体尾部と垂直尾翼の破壊が起こった。さらに、4系統ある油圧パイプがすべて破壊されたことで作動油が流出し、操縦機能の喪失が起こった。
  2. 圧力隔壁の損壊は、隔壁の接続部の金属疲労によって発生した亀裂により、隔壁の強度が低下し、飛行中の与圧に耐えられなくなったために生じたと推定される。
  3. この亀裂の発生は、1978年に起きた同機の「しりもち事故」の際に、米国ボーイング社による修理が不適切なもの(修理交換した隔壁の下半分と上半分との接続強度が不足した状態)であったことに起因する。また、点検でこれらの異常を発見できなかったことも事故原因に関与したと思われる。
垂直尾翼の破壊は後に、墜落7分前の123便を捉えた写真があることが分かり、ほぼ、証明されています。

ただし、垂直尾翼破壊の原因に関しては懐疑的な意見が多く、未だに様々な憶測が飛んでいます。
というのは、生存者が殆どいなかったから。
そのとこで、具体的な事故時の状況がなかなかはっきりしてこなかったのです。
中には、アメリカ軍による攻撃だと行っている人もいるくらい。(というか未だにいるようです。)
□ JAL123便日航機墜落事故の真相は核兵器運搬の証拠隠滅だった!日本は既に核武装国である!自衛隊、米軍、ロシア軍が死闘の末全機撃墜される!想像を絶する軍事衝突の真実とは? - News U.S. 中国・韓国・在日朝鮮人崩壊ニュース

奇跡的に命の助かった方は記録に寄ると4名です。
ご本人もキャビンアテンダント(当時のスチュワーデス、アシスタントパーサー)だった「落合由美」さん。
親子で助かった「吉崎博子」さんとその娘「吉崎美紀子」さん。
そして当時中学生だった「川上慶子」さんは一躍時の人になったほどでした。

それぞれ、時間が経ってから手記やお話した内容などもわかってきたようです。
ネットでは現在、「落合由美」さん、「吉崎博子」さん、そして「川上慶子」さんが語った事故当時の内容を読むことができます。
□ 日本航空123便墜落事故・落合由美さんの証言
□ 吉崎博子さんの証言-JAL123便墜落事故27年目の記録-
□ 幸せを掴んだ川上慶子さん - ば○こう○ちの納得いかないコーナー

皆さんの証言から爆発音と同時に酸素マスクが落ちてきて、やがて徐々に飛行機の揺れが激しくなっていき、ついには墜落をしてしまったことが分かります。

墜落まではおおよそそんな感じだったのでしょう。
問題は墜落後、「落合由美」さんと「川上慶子」さんの両者が暗闇の中でヘリコプターの音を聞いているところです。

□ 日本航空123便墜落事故・落合由美さんの証言
やがて真暗ななかに、ヘリコプターの音が聞こえました。あかりは見えないのですが、音ははっきり聞こえていました。それもすぐ近くです。これで、助かる、と私は夢中で右手を伸ばし、振りました。けれど、ヘリコプターはだんだん遠くへ行ってしまうんです。帰っちゃいやって、一生懸命振りました。「助けて」「だれか来て」と、声も出したと思います。ああ、帰って行く・・・・・。  このときもまだ、何人もの荒い息遣いが聞こえていたのです。しかし、男の子や若い女の人の声は、もう聞こえてはいませんでした。

□ 幸せを掴んだ川上慶子さん - ば○こう○ちの納得いかないコーナー
(暗闇の中)ヘリコプターの音が聞こえて来て、赤い明かりも見えて、真上迄来て止まってホバリングみたいにして・・・。『ああーこれで助かるわ。』って皆で言ってたら、ヘリは引き返した。『これで場所が判ったから、又皆で沢山来て助けてくれる。』と話したけど、それきりで来ん様になった。その内、皆話さなくなった・・・。

この証言が事実だとすると、まだ多くの生存者がいる時間帯にどこからかヘリコプターが事故現場に現れたということになります。
ただ、そのヘリコプターはやがて去っていってしまいます。
そして、翌朝、本格的な救助活動が始まった時には生存者はたったの4名になってしまったということになります。

さらに調べていくと嘘か真かこんな証言まで見つけました。

□ アントヌッチ元米軍大尉の証言-JAL123便墜落事故27年目の記録-
当機の指揮官、ジョン・グリフィンは、墜落機残骸の上空2000フィートで旋回していた。私は地上との高度をモニターし、横田までの位置関係を確認した。事故現場から横田までの緯度、経度、方向と距離を連絡した。墜落後、およそ20分で当局は墜落機残骸の位置をつかんでいたのだ。横田管制から、我々の現在地から約40マイルの厚木基地から、米海兵隊が救難に向かう準備をしてることを聞いた。1時間で到着できただろう。
(中略)
将校は「直ちに基地へ帰還せよ」「日本側が向かっている」といったので「司令部、海兵隊は救助続行をきぼうしている」といったが、「繰り返す。即刻、基地に帰還せよ。海兵隊も同様」と命令された。私は「了解。基地に帰還する」と応答した。
(中略)
翌日のニュースや新聞を見て、われわれは愕然とした。ニュースは、日本の捜索隊が墜落地点を発見するのが、いかに困難をきわめたかを伝える報道で溢れていた。事実、まだ事故機残骸に到着していなかった。私はすぐに地図のところへ行って昨日の航跡を確認した。私には正確な位置を示した、という自信があった。私は海兵隊のヘリコプターに墜落地点までの飛行を無線で誘導したのだし、日本の救難機が墜落現場上空に到着して旋回しているのを確認した後に、帰還したのだから。あの事故機発見がそれほど困難をきわめるような問題が日本側にあったのだろうか?
なんと、アメリカ軍がいち早く現場を突き止め、救助に向かったものの、何らかの理由で現場から去っていたことが書かれているのです。
その理由に関しては詳しく書かれていませんが、日本側に場所を伝え、日本側が救助に向かった確認もしたと書かれています。
この証言の信ぴょう性はいかんをや?

一方、陸路で現場に向かったという方の証言も見つけました。
こちらでも同様、ヘリコプターの音を耳にしているようです。
□ 世界の真実の姿を求めて! 御巣鷹山日本航空123便墜落事故の現場にいた人々が語る!
林道の終点から山に入ってからは、途中、山の頂きへ登る度に、ヘリの音がする方向を探して、墜落地点を確認しました。ヘリは同じところを一晩中飛んでいたので、墜落地点は当然分かっているものと思いました。
ただし、この記事に関してはちょっと怪しい気もします。
理由は読んでいただければ分かると思いますが、この辺りまでにしておかないと、前述の「核兵器運搬」云々なんて話に飛躍してしまいそうなのでやめておきます。

いずれにしても早い段階で現場にヘリコプターが向かっていたというのは事実なようです。
ただ、このヘリコプターが何だったのかははっきりしていません。
ひょっとすると実際捜索にあたっていた自国の自衛隊が近くまで来たものの、真っ暗すぎて見つからなかっただけかもしれません。

Wikipediaにも以下のようにありました。

□ 日本航空123便墜落事故 - Wikipedia
墜落から約1時間後の19時54分に、救難・救助のため見切り発進した百里基地救難隊のKV-107ヘリコプターは、46分後の20時42分に現場上空に到着した。20時33分になって、救難調整本部(東京空港事務所長)から航空自衛隊へ航空救難の要請(災害派遣要請)が行われた。しかし、当時のKV-107救難ヘリは両側面のバブルウィンドウ横に救難用ライト4灯を装備して夜間の救難作業は可能だったが、赤外線暗視装置などの本格的な夜間救難装備の無いことなどを理由に、事故当夜の救難員が降下しての救助活動は行われなかったとされている。
一方で
1995年8月、当時123便を捜索したロッキードC-130輸送機に搭乗していた元在日アメリカ軍中尉が、事故直後に厚木基地のアメリカ海兵隊(のちに座間のアメリカ陸軍と訂正)救難ヘリを現場へ誘導したが、救助開始寸前に中止を命じられ、またその事実も他言しないよう上官から命令されたと証言した。
生存者の証言によると、墜落直後の現場にヘリコプターが接近したが、やがて遠ざかっていったという。また、報道機関としては事故現場を最も早く発見した朝日新聞社のヘリは、現場を超低空で飛行するヘリを目撃している。マスコミ各社は「日本側がアメリカ軍の救助協力を断った」などと報道し、救難体制の不備や関係当局の姿勢に対する批判が高まった。
ともありますが。。

まあ、Wikipediaだから正しいということでもないですしょうから、結局は真実は闇の中となってしまっているわけです。
さらに、これだけ時間が経ってしまうと、当時、指揮系統にあった人たちも徐々に亡くなられてしまっているでしょう。
あ、いましたねとっても重要な位置にいた人が。

□ 日航ジャンボ機墜落事故の真相(1)墜落後、中曽根首相はプールと人間ドッグ - リアルライブ
この事故の前後も含めて一週間後、首相の中曽根さんがどう行動したかっていうのを、新聞にある『中曽根さんの一日』という、首相の動静を書いた記事の部分をすべて逆読みしていくと一切、御巣鷹山に行かずに軽井沢でプールで泳いでいたり、ゴルフしていたり(笑)。他には、自分の人間ドックを優先させたり、ということで驚いたんです。
ここまで来たら墓場までといったところでしょうね。
あくまでもWikipediaでの情報ですが中曽根さんご本人もそのように申しているようです。

□ 中曽根康弘 - Wikipedia
1985年8月の日航機墜落事故において「真実は墓場まで持って行く」と発言した。
 なお、上記記事の続きはこちら。
□ 日航ジャンボ機墜落事故の真相(2)飛行機の外に見えるオレンジ色の物体は? - リアルライブ
□ 日航ジャンボ機墜落事故の真相(3)オレンジ色の物体は自衛隊の標的機なのか - リアルライブ
これが真実?

こんなブログもありますね。
□ ブログ「日航機墜落事故の真相」: 地球という眼球にあらわれた飛蚊症
□ ブログ「日航機墜落事故の真相」 (2): 地球という眼球にあらわれた飛蚊症

結局何が真実かというとわかりませんが、ひょっとするとより多くの人が助かったかもしれないと思うとやりきれないところがあります。
今であったら、間違いなくより多くの人を助けることができていたでしょう。 
いや、そうなっていなければ亡くなった520名も浮かばれないんじゃないでしょうか。
 【追記】各種関連資料等
□ JAL123便日航機墜落事故関連資料集 
□ 日本航空123便 CVR記録/JAL123 Cockpit Voice Recorder - YouTube